FIELDNOTES/13万人の声々が重なり、また「再会」する

エストニア、という国名を聞いて何を思い浮かべるだろう?バルト海に面したバルト三国の一角をなす旧ソビエト連邦の国、という地理・歴史的な答えだろうか。それともフィンランドのヘルシンキから高速船でバルト海を越え、数時間程度で足を延ばすことができるサウナの聖地、という観光情報のようなことだろうか。
私にとってエストニアは、1879年以来、事あるごとに、現在は5年ごとに「歌と踊りの祝祭」を開催している国、である。この祝祭について知り興味をもったのは20年も前になる。きっかけは恐らくエストニア出身の作曲家Arvo Partの音楽、特に合唱音楽と出会った事と関係しているとは思うのだが、10万を超える人達が一体となって歌う姿を映像で見たり、少し調べたりしてる過程で、エストニアがソビエト崩壊に先立つ時代に「The Singing Revolution(歌う革命)」を経て独立を勝ち取ったという歴史を知り、さらに興味を募らせてきた。
歌う革命が起きた1988-89年頃という年代はベルリンの壁崩壊に代表される東側世界の瓦解が起きた激動の時代、バルト三国でも人々が国境に立ち手をつなぎ「人間の鎖」を作りソヴィエトの再侵攻への抗議を表し独立気運を高めたことがよく知られていますが、エストニアではある音楽祭・コンサートに集まった観衆が自然発生的に愛国歌を歌いだし、禁止されていたエストニア国旗などが振られ、そこから独立運動が一気に加速し、当時のエストニア共産党第一書記が辞任に追い込まれ、さらに歌の祝祭広場に15万人、そしてとうとう30万人という数の人達が集まり歌う事でプロテストを果たし、独立を勝ち取っていったという歴史的経緯があり、エストニアの国家独立には「歌」や「歌の祝祭」(その会場である野外スタジアム)が重要な鍵を握ってきた。ソヴィエト時代、モスクワはスターリン礼賛、共産主義プロパガンダの周知機会として「歌の祝祭」とその集まりを利用していた。独立後も政治的な背景がその開催に働いていたという側面は多分にあるだろう。そもそも「歌の祝祭」が企画された時代にさかのぼって考えるなら、19世紀の民族主義的な高まりの最中、エストニアが帝政ロシアの圧政に苦しんでいた時代、民族アイデンティティーの醸成を意図して「歌の祝祭」は企画されたことを考えれば時代を通じて政治利用されてきた、と言えるだろう。*1
音楽や合唱は人々を突き動かす力がある。集団で歌をともに歌う事で生み出される一体感はおそらくほとんどの人が経験的に知っていると思うが、歌詞や音楽の内容が特定の方向性や明確な意図をもって作られた楽曲を合唱するなら、集団的なアイデンティティーを強化することは難しいことではない気がする。歌うという行為を通して実際に自分が(声帯を)発振し、合唱に参加するという意思・決断・行為が周囲との共振を強化するだろう事を考えれば、「合唱」が歌う人達をひとつの大きな振動の一部としていく側面に気づく。
エストニアの「Singing Revolution」にもそういった事は見て取れると思う。ただ、歌う革命を生み出した彼らの「歌う文化」というものは、そういった事とは違う何かを含んでいる気がしていた。何か気になるというか、引っかかる点があった。例えば、そもそも国民国家アイデンティティーの形成手段として「合唱」を選ぶ時点で、特殊ではないにせよ、ある程度の文化的、伝統的な「特徴」を表しているのではないか。実際、バルト三国では開始時期やきっかけの違いはあるにせよ、リトアニア、ラトヴィアでも同様のセレブレーションが数年に一度開催されてきた。2008年にはそれらのユニークさが認められて、3国まとめてUNESCOの無形文化遺産として登録されている。
そして「歌う革命」の後も、Laulupiduが現在に至るまで国民的な行事として行われているという点に関して、現実に常にこの地域の国々には歴史的記憶に裏付けられた対ロシア的なトラウマがあることは容易に察せるし、そのための国民団結の機会としての要素があることも確かだろうが、そのためだけにこんな大規模な「祝祭」を続ける・・・という説明が果たして成り立つだろうか?「歌う革命」以降に生まれた90年代生まれの現役世代にも対ロシア的な危機感は引き継がれているとしても、時代的な価値観、ニーズ、背景を越えて、世代を超えて引き継がれてきた行事である、という事実が、ただの形式的な反復ではあり得ないこと、また国家・支配体の様な「上」から押し付けられた様なものでも実はなく、エストニアの人々の根底に根付いている「何か」との共鳴があり、その発露としてLaulupiduがあると考えるほうが、この息の長いモチベーションを説明し得るのではないか、と考えるようになり、是が非でも現地でその「何か」の幾ばくかでも感じたいと思ってきた。

2025年7月、積年の願いがかなって私はエストニアを訪問し、念願の「Laulupidu」に参加することができた。今回で28回目となるLaulupiduXXVIIIは悪天候に見舞われたにもかかわらず参加合唱者の合計は約3万人、観客・参加者は約10万人。これは実に現在のエストニアの総人口の10%にあたる人数だ。毎回、5年間の準備期間を通じて掲げられるメインテーマは「Iseoma/Uhendatud erinevused」、公式の英語版は「Kinship/Difference united」。それらしく日本語で訳すとすれば・・・私たち・繋がり/違いを越えて、という感じだろうか。今回の10日ほどの滞在中は現地でエストニアの人達にインタビューする機会は望んでいたよりも限られてはいたが、それでも訪問前には知らなかった理解が今の私には形成されつつあるように思う。そしてそれはやはりあの歌声とその声々を挙げた人達に直接出会い、共振する事なくしては生まれなかったものではないかと思っている。

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7月1日、かなりコンパクトなタリン空港に到着し、Bolt(エストニア発祥のUberのような配車サービス)のピックアップロケーションを目指す。空港の外に出ると、思っていたよりも日差しが強く暖かい。ギリシャあたりからの熱波の影響でヨーロッパ全域で危険な暑さになっていて、フランスやスペインでは死者がでたりといった報道がされている中、タリンでは日向で気温が25度くらい、日陰では20度くらいに感じた。おそらくこれでも1年のうち数日か1週間程度しかない「最も暑く日差しの強い夏の日」なのだろう。実際、到着からの数日は少し汗ばむくらいの陽気で予想していた気候とは少し違った。車の窓から景観を眺め、街の規模感はヨーロッパにありがちなこじんまりとしたものだな、などと感じていると、あっという間にホテルに到着してしまった。街のつくりもとてもコンパクトだ。
ホテルを出て少し歩くと、木造風の家屋に中間色のペンキが塗られたカントリーハウス調の住宅、社会主義建築的な権威的なあるいは無味なコンクリート建築、資本主義時代を象徴している感じの現代建築あるいはキラキラ(張りぼて?)ショッピングモール、テーマパークよりも純然とした「中世ヨーロッパ」感が凝縮したように感じられる旧市街、と歴史が隣接しあった街並みになっている。
7月3日の夜から踊りのセレブレーションがはじまるということもあり、街中では明らかにこのために集まった参加者の人達なんだろうな、という民族衣装を着た老若男女をチラホラ見かけた。他にも文化祭的なノリ?で作ったのか、お揃いのオリジナルTシャツを着たグループともあちらこちらですれ違う。広場のようなところでも伝統音楽のコンサートの準備が進んでいて、リハーサルなのかコンサートなのか演者も周囲を歩く人たちも天気のよさもあって楽しそうしている。
ちなみに3ー6日までのセレブレーションの期間中はタリン市内の公共交通機関は無料になる。ちなみにこの時期は、夏至を過ぎて10日ほどということもあり「白夜」と言うほどではないかもしれないが、一晩中ほぼ真っ暗になる時間がない。真昼のような明るさは21時頃までは続き、24時を過ぎてもいつまでもサンセットアワーが延々と続き、再び「日が昇る」朝方4時頃に日没前の濃い赤紫の空が白みだし、茜色に変わったかと思うと、すぐに真昼の明るさにすぐ変わる、といった具合。

セレブレーションの公式プログラムは7月3、4日の2日間にわたってタリン郊外のサッカーか陸上競技用のスタジアムのようなところで開催される踊りのセレブレーションによって開始する。残念ながらこちらの方はチケットが発売と同時に即完売してしまったためホテルでエストニア国営放送の特別番組で観ることに。エストニアでのリサーチに協力してくださっている方によると、実は踊りのセレブレーションはマスゲーム的な要素が大きいので、会場で全体の動きを見ようと思うと限られた席になってしまうらしく、案外TVや配信で観るのは悪くないということで、実際観てみると・・・強いて言えばフォークダンスとマスゲームを合わせたような感じで確かに全貌を知るには映像もありかな、という感想。
伝統衣装を着た団体とテーマにあわせて作られた衣装を着た人達、踊りや動きも伝統的な感じのもの、というわけでもないものと、要素が入り混じったグループ・創作ダンスが次々と披露されていく。画面を通じて観たことで踊っている人達の楽しそうな雰囲気が印象に残った。決して作り笑顔とかそういう感じでもなく、かといって踊りの上手さを競うわけでもなく、プロ並みに洗練された技術があるというわけでもなく、、、いたって普通の人達が一生懸命かつ本当に楽しそうに今回のテーマにそってつくられた振りつけを踊っている。その様子は何かしら幸せな感じがして微笑ましく、不思議に見れてしまう。確かに祝祭という名がふさわしい、そんな3時間。もちろん全てを観たわけではないが、翌日も11時と18時からそれぞれ3時間行われる。参加ダンサーの総数は1万人ほど、という公式発表。時間数だけ見ると、なかなかの長さ・量感に思えるのだが、踊りのセレブレーションが終わる翌日からはじまる予定の歌のセレブレーションの方も2日あり、初日が約4時間の前夜祭、2日目がメイン・セレブレーションは約8時間と長丁場。5年に一度、全国各地から各年代あるいは年代混合の様々なグループがセレブレーションに参加するという熱量からするともしかしたら長くはないのかもしれない。

7月4日は上記の通り踊りのセレブレーションが続くが、午後には旧市街のゲート付近の広場にて伝統音楽の合奏的なコンサートが行われる。そしてこの日の夜から雲行きがあやしくなりはじめてしまった。エストニアの夏はとにかく雨がふったりやんだりを繰り返すとは聞いていたので、ある程度覚悟はしていたものの、天気予報を注意してみると翌日からは雷を伴う雨で本格的に崩れる、という具合。さすがに本降りになってしまったら参加者は減るのかな、などと考えたりしながら、しきりに雨雲レーダーをチェックし続ける。

7月5日、朝からとうとう雨が降り出し、小雨から本降りに、という天候の中、昨日コンサートが開かれていた広場の辺りを出発地点に、歌の祭典会場に向けて合唱団員たちのパレードが行われた。ホテルの近くの大通りもその進路だったので、傘を差しつつ人々が練り歩く様子を見物にいった。雨には慣れっこと言わんばかりに嬉々として透明の薄いレインポンチョを伝統衣装の上に羽織った姿で歌の会場へと足を向ける人達。靴、ズボンやスカートの裾はおそらく雨で濡れ切っている。昼過ぎからはじまったパレードは約8時間後のオープニングコンサート開演前まで続き、全員が会場へと入場していく。
19時半開演時間より1時間ほど早く着けるよう夕方過ぎにホテルを出発し徒歩で会場に向かう。会場となる野外スタジアム周囲は森のような広大な公園の一部なのだが、公園を歩いていると方々からレインコートを来た人たちが連なって会場へ向かい歩いている。とうとう積年の願い「Laulupidu」が目前に迫ってきているんだな、という実感を高まる。とはいえ、翌日がメインの日のため初日は前夜祭的な位置づけで「オープニングコンサート」と呼ばれている。ともかく、今回で28回目となるLaulupiduXXVIII、天気予報は見事に当たり・・・雨風強まり悪天候に見舞われたにもかかわらず、終了後に発表された参加合唱者の合計は約3万人、観客・参加者は約10万人。これは実に現在のエストニアの総人口の10%にあたる人数だ。ちなみに東京ドームでのコンサートなどの最大収容人数が約5万5千人らしいので、その倍以上。そんな規模の人達が集まり、しかも雨天で、いかほどの混乱か、と思っていたが、拍子抜けするほど入場もスムーズで混乱らしい混乱をみかけなかったどころか、いたってピースフルというか、静かだな、という印象すらもった。一例をあげれば、会場内は傘の持ち込み・使用禁止。入場ゲートのセキュリティが簡単な持ち物検査の時に「傘持ってますか?」と質問し、ある場合は没収される・・・のかと思っていたら、帰り際に気づいたのは、なんと傘はただただゲート付近に置いていき、帰るとき自分で持って帰る方式。13万人の集まりでこんなことが成立するというのは、、、そもそも持ち込み禁止が周知されているからだろうし、盗難、破壊行為、廃棄もしない、という大前提があるからだろう。そんなところにもこの集まりの性格・性質が現れていたように思う。入場時も、帰り道でも誰も無意味に騒いでないし、当然争っている人達も一人もいないし、もちろんそんな趣向の集まりではないから、なのでしょうが、それにしてピースフル。
会場は正面のステージが階段状になっており3万人の合唱者達がずらりと並び得る作りになっている。ステージに向かって右側には10階建て程度の高さのタワーがあり屋上部分には聖火台があり開会式のセレモニー冒頭でエストニア中を巡ってきた火がともされる。そしてステージ下は客席ではなく様々な合唱団が入退場できるように、またセレモニーの一部で踊り手が加わったりする場面のために確保されている。そしてずらりとならぶ客席。この「客席」というもよくできていて、おそらくオーク材の一枚板とその両端に簡単に留める金具で設置できるベンチになっており、一枚に5,6人が腰かける程度。座席ゾーンの後方は傾斜がきつくなり芝生席になる。こちらはアウトドア用の椅子を持ち込んだり、レジャーシートを持ち込んだりするのだが、悪天候のためずっと立っている人達もかなり多くみられた。芝生席の最後方はすでに森のような部分と接しているため樹々に雨宿りしながら立っている人達も相当数いた。割合はわからないが、座席側が3万人、芝生側が7万人?くらいかもしれない。私は実は両方のチケットを用意していたのだが座席ゾーンのチケットがあれば芝生側にもいけたので動き回って会場全体の雰囲気をみてまわったりした。
天候に関して、レインコートやクッション、タオルなどある程度対策していったことも手伝って、結構な本降りの雨が降っている時間もかなり長く感じたが、覚悟していたほど長くも感じなかったし、雨だからといって帰ってしまう人たちもあまり居なかったように見受けられた。と言って、じっと合唱を聞いているわけではなく、演奏の合間などに席を立ち食事をとりに行く人たちは常にいる。Laulupiduのために設計された野外ステージ周囲には日本で言うところの出店のようなものが何軒もでていて大きなテント式の食事エリアがあったりして、ファミリー対応もしているタイプの野外フェスのようなつくりと言う感じ。ただアルコールの販売は見かけなかったし、あったのかもしれないが酔っぱらっている感じの人達、そういう雰囲気は一切見なかった。「オープニングコンサート」はややセレモニーのような空気感もあったが、23時の終演までの4時間が、思った以上にあっという間で、つつがなく終了した。国歌(だと思う)、その他の合唱歌を観客が一緒に歌う場面が何度かあったが、多くの人が手にした国旗を振り、実に嬉しそうにしているのが心に残った。ただ特別に盛り上がるというか高揚感が高まるような、そういったことは無かった。私自身も念願かなって興奮状態になるかと思ったが、むしろ良い時間だったな、という穏やかな気持ちで翌日のメインの日には少し違った雰囲気になるのだろうか、そんなことを考えつつ雨の中、宿へ戻った。

翌日、メインの日は午後14時開演−(21時頃に終演予定)。オープニングコンサートで感触がわかっていたため、7時間でも大丈夫だろうなという心持ちで、私は再び森のような公園を抜け会場へ向かうと、明らかに前日よりも多くの人が集まっていることを感じた。会場付近は前日よりもややざわついている気がしたが、開演時間ちょうどくらいに到着したにも関わらずまたもやスムーズに入場できてしまった。もしかしたらそんな感じかな、と期待していたが、やはり前日同様にスムーズ過ぎて驚いてしまった。 最大で3万人ほどの合唱団とオーケストラの演奏で組み上げられる7時間超のプログラムは、ウィンドオーケストラ、少年合唱団、少年+大人の男声合唱団、小さな子供たちによる合唱団、女声合唱団、シンフォニーオーケストラ、子供たちの合唱団、男声合唱団、混声合唱団、全合唱団という順に進んでいく。どのレパートリーも、5年間の準備期間の間に時間をかけて選ばれ、そしてオーディションなども行われたうえで、選ばれた合唱団が基本的に1年半ー2年間くらいかけて練習してきたもので、想いが詰まった演奏でした。特徴的なのが指揮者がアナウンスされ、登場するたびに合唱者達から拍手喝采が起きるコンサートも珍しいかもしれません。きっと、2年間指導を受けて、一緒に作り上げてきた想いが弾ける瞬間なのかな、と感じました。
これらの合唱に耳をかたむけ、周囲を見渡し、いったいなぜこの人たちはここに集まり、一緒に歌うのだろうか、その心内にはいったい何があるのだろう、と考えながら会場を歩き回っていると、ものすごい数の人が集まっているにもかかわらず、プログラムが進むにつれて、あちこちで「あ〜!久しぶり!」みたいな感じで手をあげ、挨拶をかわし、長話する人達の姿が目に留まるようになりました。実際夕方以降は人出も一段と多く、座席側、芝生側の大きめの通路でも同じような人だかりが増え始め、会場周囲でもかなりの数の人達が話をしたり、肩を抱き合って一緒にステージに向かってたたずんだり、それぞれに、かつ一緒に、この時間を大事に過ごしているように見えた。それは実に心温まる光景だった。エストニアという小国ならではの状態なのか、人口の10%が集まると、来てみたら待ち合せなくても、親戚や知り合いがあちこちにいる、という状態なのかもしれない。そう考えると、このピースフルさと幸福感は、久々に再会し、顔を合わした人達から醸し出されている空気感なのかもしれない。
セレブレーションの中で何度も見かけた光景が他にもある。3万人の合唱団が位置するステージ最上段の人達が口々に声を挙げ両手を挙げてウェーブが起こる、ウェーブはアリーナに広がり、グランドに設置された客席を駆け抜け、傾斜上に後方にひろがる芝生席をかけあがる。芝生席の最後方でウェーブは切り替えされ、来た道を、無邪気な楽しさと喜びをただただ増幅させながらステージ最上段へとまた還っていき、皆が拍手をする。大きな会場を使ったスポーツイベントなどでもこういう光景を見かけることはあるが、曲間や場面転換のちょっとしたタイミングでウェーブが(正直、よく飽きもせずに・・・と感じるほどに・・・)何度も繰り返し、起こされる、そして最後に暖かい拍手が起きる。あたかもお互いに挨拶をかわし、この場にいることを喜び、称えあい、また集まれたことを祝う、ささやか(といっても13万人もいるのだが)なウェーブという手段で。そのウェーブは儚くもありまた、誰にも奪われることのない「歌う」という力と何かしら共鳴するものがあった。

プログラムの最後には全合唱団による合唱の時間があり、その最後にはエストニアで歌い継がれている実質的な国歌、あるいは非公式な国歌と言われる「Mu isamaa on minu arm」という曲が歌われるしきたりがある。この曲の歌詞は帝政ロシア時代を生きたエストニアの国民的な詩人リディア・コイドゥラ(Lydia Koidula)による望郷の念(ロシア帝国に征服されてしまっている状況、そして自身がエストニアの地を離れサンクトペテルブルク付近に暮らしていた、という2重の意味で)を強く詠った詩がもとになっている。1869年の第一回歌の祭典(ラウルピドゥ)でアレクサンダー・クニレイド(Aleksander Kunileid)によって初めて曲が付けられ、その後、1944年に作曲家グスタフ・エルネサクス(Gustav Ernesaks)というエストニアを代表す作曲家・合唱指揮者が新しいメロディをつけ、以降は歌の祭典(Laulupidu)の最後に必ず歌われる重要曲となっています。エストニアの友人から聞いた話によるとグスタフ・エルネサクス氏が再作曲した状況というのも故郷を離れていた時だったそうで、何重にも故郷を想う気持ちが折り重なった曲なのだ、と教えてもらいました。「我が祖国、我が愛」というタイトルからわかるとおり愛国歌とされ、ソヴィエト時代にも、歌う革命の時も、この歌が様々な政治状況に屈することなく歌われ続けたことで、エストニア独立の旗印ともいわれているが、isamaaという言葉は祖国というより故郷であり、自分を育んだ土地、のことを表す言葉であり「愛国歌」というよりも「望郷の歌」である、とも。
2025年のLaulupiduにおいても、もちろん「Mu isamaa on minu arm」は歌われた。*2 私もこの曲の大合唱時にはきっといろいろと感じるものがあるだろうと期待していました。その場にいるすべての人が立ち上がって、力強さと切なさが混じるメロディーと歌詞のひとつひとつを丁寧に歌いはじめると雨が弱まった会場は独特の雰囲気に包まれていた。クライマックスの高揚感というよりも、この瞬間をまた心に深く刻もうというような、真摯な想いに満ちた時間。人々が5年に一度の大事な時間を名残惜しむようにして歌い終えると、同時に、聖火台の火も消えていた。大きな拍手が起き、間を開けずして自然と人々が同じ言葉をコールしはじめた。おそらく指揮者の名前かアンコールだろう、と思っていたら、いましがた指揮をとった今回のLaulupiduのメイン・ディレクターが再び登場し、期待通りに壇上に戻るのかと思ったら人々のコールに応え手を振り、マイクを手に笑顔で何かを言っただけで立ち去ってしまった。実は、全合唱団による合唱はそれまで全曲終わる度に合唱者達から指揮者に対してアンコールがかかり、あたかもお約束のようで、2度歌われていたので、この曲だけが一度のみだったことに驚いた。エストニアに来る前に読んだいろいろな文献でもこの曲が何度も何度も繰り返し歌われたエピソードもあったので尚更意外だった。だが、逆にやはりこの曲は何かしら特別なのかもしれない、と感じたのも事実だ。

聖火が消え、公式プログラムは終わり、帰り路に着く人たちも居るなか、合唱者達はステージを去らず、指揮者の名前をコールし、その指揮者が登場し、曲名が告げられ合唱が行われることが続いた、最後にはスピーカーからの音は消え、いよいよ終わりかと思ってからも、合唱者達の誰からともなく自然発生的に様々な合唱が続く。感傷的な感じはなく、あくまでも幸福感が残響している。座席ゾーンを出て、ゲートに向かう途中、会場の周囲でも小さな合唱の輪が生まれていた。ゲートを出て、車両制限がされた大通りを町の中心部方向にむかって歩く人たちの姿を見ながら、私はこの人達がなぜ集まり、一緒に歌うのだろう、とふたたび考えていた。

Laulupiduの翌日からはそれに併せて開催されてたヨーロッパ合唱協会主催のカンファレンスに参加し合唱に関する専門的な講義やワークショップに参加したり、世界最高峰と言われるエストニアの国立男声合唱団、エストニア室内楽合唱団、少年合唱団など訓練に訓練を重ねたプロフェッショナルな合唱団の演奏を観賞した。彼らの合唱は私にとって基本的にはじっと聴くものであり、その声々の生み出す響きのディテールを味わう「コンサート」時間・経験だ。言うまでもなく、Laulupiduの合唱はそうではなかった。もちろん合唱や演奏に耳を傾ける場でもあるのだが、むしろ「歌」が「歌われる場」という側面が圧倒的に強い。「歌」は歌われなければ存在しない。合唱曲として作曲された曲目は、特にLaulupiduを念頭に作曲された「Mu isamaa on minu arm」などは、ある程度の人数が集まって歌われなければその本質を表すことなく・存在しないと言える。たくさんの人々が集まって共有される時間にしかそれは存在し得ないのだ。そしてそれらが歌われる時、いわゆる「コンサート」における音楽的なクオリティーやドラマから得る感動とは異質な「感動」が生まれ得る。
“Mu isamaa…” というユニゾンの歌い出し、声々がひとつに重なるとき、私が来場前に想像していた興奮や高揚感とはまったくちがう家族的な時間がその中心にはあった。合唱する人々の真摯な態度は、ナショナリズムのようなプラスチックな作られた表情・感情ではなかったはずだ。あえて言葉にしてしまうなら、愛という言葉でしか表現できない類のものではなかったか。エストニアの人達にとってあの歌は、そしてLaulupiduという集まりは、個人の力ではどうにもならない困難の中で生まれ、共に支えあい、生き抜いてきた同郷の存在、特に同世代の人達にとっては激動の日々を共に生きてきた旧い友人、同胞、あるいは兄弟姉妹かもしれない。また少し若い世代の人達にとっていは父や母、叔父、叔母のような自分達を育んでくれた、エストニアの独立を導き育ててきた尊敬すべき目上の存在なのかもしれない。そうだとしたら、集まって合唱することは、会場で久々に親類、知人の顔を見つけ声を掛け合うのと何ら違わない幸福な「歌との再会」なのだ。私がLaulupiduの会場で「感動」したのは、13万人の声々が重なり、あの「歌」を合唱する人たちが、5年ぶりに活き活きとした姿で、あの野外スタジアムで、またあの歌と「再会」する姿だったのかもしれない。私はもちろん彼らと「親類」関係にあるわけではないし、部外者ではあるのだが、あれこれ調べたりしていくうちに、あたかもMu isamaaのメロディーを諳んじることぐらいは出来るようになっていたのと同様に、その「再会」の意味する幾ばくかは理解していたことで、彼らの「再会」を感動をもって周囲から見守る心持ちになっていたのかもしれない。エストニアから戻り、あれこれと感じたことを捉えようとする中で、そんな見方が「歌う」とか「集まって歌う」という周縁には出来るのかもしれない、と思うようになっていた。
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*1 「エストニアの歌と踊りの祭典」(2011、大中 真)の中に歴史的な経緯の章あり。
pdfのダウンロード

*2 芝生席から撮影したと思われる2025年のLaulupiduの「Mu isamaa on minu arm」大合唱の様子を映したYouTube動画:クリックして動画を開く Laulupidu XXVIII 参照YouTube動画:

踊りのセレブレーションの様子



パレードの様子



歌のセレブレーションの様子








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