FIELDNOTES/ある「ひとつの声」とその10年分の反響(のほんの一部)にまつわる思索

2025年8月21日、自宅を出て、フライトを乗り継ぎ、24時間以上経った頃、ようやく土とオレンジが混ざった色の瓦屋根ならぶ馴染みのある光景が眼下に広がってきた。インドネシア、ジャワ島のちょうど真ん中付近、南海岸側の古都ジョグジャカルタ。ここもまた何度訪れたのか忘れてしまった土地の一つだ。10回前後?だろうか、滞在日数は合算すると1年くらいになるかもしれない。滞在は1週間から数か月と時々で毎回違うものだったが、2017−2018年の間だけで合計半年ほど滞在した。当時取り組んでいたリサーチプロジェクトや展示、パフォーマンス、そして映像作品のための撮影や録音のため、バイクか乗り合いミニバスみたいなもので3時間ほどかけていくパチタンという場所でサーフィンするため、そんなこんなしている間に仲良くなった大事な人達と時間を過ごすため、などなど目的は入り混じりつつ、そんなものが厳密に「これ」とあるわけでもなく、わたしはジョグジャに身を置いて、そこで過ごす時間を自分自身にフィードバックさせたいと願ってきたのだ。
そして初めて来た時から、毎回ずっとお世話になっている場所、コミュニティ、人(と言っても時には誰も居ないこともあった)がある。それが、ジョグジャカルタの観光地がある北側ではない街の南側のさらに街はずれ、ローカル感あふれるエリアに位置するArtist Support Project(以下ASP)であり、その設立者・運営者・そして画家でもある横内賢太郎(以下ケンタ)、そして彼の周囲にいるASPのメンバー達(と言っても別にきちんとしたメンバーシップがあるわけではない)。
今回の旅はそのASPの十周年を記念した展示と集まり(ささやかなパーティー)に合わせたものだ。そしてその記念展に作品を出品する代わりというわけではないが、パーティーの際に「声を挙げ、絶やさない」というプロジェクトから生まれてきたコレクティブな声々の響きを作るパフォーマンス/声遊び、のようなものを居合わせた人達と即興でやれればいいな、と思いやってきた。当日、誰が集まってくるのか、どんな状況になるのか、詳細はわからなかったのだが、ジョグジャだしなんとかなるだろうと思いつつ。きっと私と同じように遠方から、日本から、そしてジョグジャ近郊から、懐かしい顔がいくつも見れるだろうという期待もしつつ。

Parangtritis というそこそこ大きめの通りから脇に入る路地の少し先には、ジョグジャの乾季らしい青い空よりもさらに濃い青で綺麗に塗られた外壁の家(と、言ってもどこからがどの家なのか、繋がっているかどうか、中に壁があって仕切られているのか、は外からはちょっとわかりづらい改築増築を経た長屋のような感じ)の軒先には変わらず「ASP」という文字型が抜かれた水色の小さな楕円形の看板が下げられ、壁に沿っていろいろな植物が植わっている。路地に入ると大通りを走る車やバイクの音がすこしだけ遠ざかる感じ、道端で洗い物や洗濯を干したりしている近所の人達に「モンゴー」*1 と言いながらお辞儀と会釈をする感じ、微妙に舗装されたり掘り起こされたりを繰り返している路面にサンダルで立ち路面の暑さが伝わってくる感じ、ASPの向かいの庭のような空き地の様な場所の様子が来るたびに違っている感じ、「あぁ、久しぶりにかえってきたんだな」と、嬉しい気持ちになる。と言っても、前回訪れたのはわずか1年前なのだが、それでもここで過ごした時間の密度のせいか、自分でも不思議なのだが、今回もやはりそんな気持ちになった。そして、家の前で、ジャッ、ジャッと音を立てながら竹の細い枝で出来た箒で路地の落ち葉を掃いているケンタがこちらに気づき、再会の挨拶をかわした。

到着した翌日(記念展示オープン&パーティーの前日)は時差ボケ、午前4時すぎのアザーン*2 の音なども手伝って相当に朝早くから目覚めてしまった。「そうそう、これこれ」と思いながら、しばらくゴロゴロしたが寝れないので、もう少し具体的に翌日のパフォーマンスの事をイメージしようかな、という気になり、起きて少しストレッチをしたりしてマンディ(沐浴)、ちょうどケンタも早くから起きてきたので、ASPから徒歩2分くらいのSoto Ayam(スープにご飯、ほぐした鶏肉、もやしやトマト片などのちょっとした野菜などが入ったもの)のWarung(食事するところ)で朝食をとることにした。
ジョグジャは食が豊かだと思う。おそらく多くの農産物、畜産物は土地のものでその日その日調理されているので新鮮だしエネルギーに満ちている。ここのSoto屋さんでも、店主のおじいさんが(ウーバーみたいなバイク便で?)運ばれてきた鶏を裏の方にもっていくの見かけるので、裏でしめて、さばいて、スープを作っているのだと思う。一日をスタートする良質のエネルギーを得たところで、さっそく展示設営にとりかかることになり、その日は作業に終始追われた。
ケンタの借りている家(=ASP)は4ベッドルーム、玄関入ってすぐの大きなスペース、そしてキッチンスペース、その他トイレとシャワー室、大きなストレージ、と大きな家なのだが、今回の展示ではASP全体を使うという趣旨で2ベッドルームとストレージを除いた全てのスペースを活用しつつ、これまでASPに関わった100名を超えるアーティスト達の中から今回の記念展の呼びかけに応じた約50人のアーティスト達から寄せられた小作品、アーカイヴ、あるいは作品の画像データ(がでかでかと壁色とあわせた背景にプリントアウトされた壁サイズの分厚いビニールのバナー*3 )、映像作品などの多くの要素が組み合わさることになる。主催者のあいさつ文には「『ASPの10年後』をテーマに、この場に関わったアーティストたちが今、どのような場所で、どのような作品を生み出しているのか、その軌跡を辿ります」、と綴られていた。

呼びかけから、1カ月ほどの期間しかなかったにもかかわらずこれだけの人達が何かしらを送り寄せてきたことは凄いことだと思うと同時に、驚きはしなかった。ケンタの人柄やASPでの経験とその人たちとの関係性がそもそも良好な事は容易に想像出来るし、そう考えれば、あり得ることだと思ったからだ。きっとジョグジャカルタ/ASPに滞在してしっかりとその空気感に触れ、この地のテンポや雰囲気に一度でもチューン・インしたことがあるなら、1カ月前の呼びかけメールからその人たちなりの懐かしく心地よいASP的な「あの感じ」を受け取ったのだと勝手に想像する。
それぞれの人にそれぞれ違う「あの感じ」があるだろうと思うが、私の場合は滞在中によく一日の終わりにASPのキッチンなどで「今日はどこかにいってたんですか?」「明日は何かやるんですか?」と言う感じでケンタに聞かれ、ちょっと考えていることなどを話し始め、結局あれこれ話も深まり、「そういう感じなら、ーーーーに行ってみますか?」「ーーーーさんって人がいて、もしかしたら興味あるかもしれない。会ってみたりしますか?もし行くなら自分も興味あるので良ければ一緒に行きますよ。」というような会話になり、そういうきっかけから制作の転機を何度も得た。キッチン以外でも、ケンタが運転するバイクの後ろに乗せてもらっている時、信号待ちの間に、つい今しがた街中で見かけた気になった光景についてふとした質問をした果てに、新鮮な気づきだったり思考の経路につながりが見つかったりして、リサーチが思わぬ方向に加速したりという事もあった。もちろんこちらからコーディネートをお願いすることもあったが、基本的には一人で動いてやるのがベースにあったので、どういうケースにしてもケンタが「興味がある」「一緒に行きましょうか」と言ってくれた時には実際そうなんだと信用して、遠慮する必要がなかった(と、こちらには思わせてくれていたように思う)。言語の面、地の利、リサーチや映像制作の助手のようなことも含め何度も助けられ、結果的にいくつかの作品の核になる部分を一緒に作った。 ジョグジャでのリサーチや制作は、ほとんどの場合綿密な計画に頼るものではなく、どちらかというと行き当たりばったり風、来た波をしっかりとらえて乗るような感じではあった。当時わたしは自分の中の「先回り思考の計画魔」的な傾向を見つめ直し(叩き直し?)完璧な「計画」は柔軟かつ強靭な背骨を持った身体的なもので、ありとあらゆる可能性や予測不能な状況に対してもしなやかに動きながら対応できる、十分なマージンを持つ、ものだという生き方にシフトしよう(あるいはそういうギアも手に入れよう)としていたこともあり、ちょうどジョグジャでの「行き当たりばったり」のリサーチや制作、ケンタ/ASPのサポートは波長が良い具合に合うものだった。そもそも綿密な計画なんて繊細な類のものがここではほとんど機能しないという現実がベースにあるにはあるけれど。
何度も滞在する中で、ケンタが様々なアーティスト達に接している様子を見聞きした。他のアーティスト達のもつ興味やその興味へのアプローチ、技術、こだわり、テンポ感、エネルギーに触れること心底楽しんでいる様に見えた。時に困惑したり、振り回され疲労困憊していたようにも見受けられたが、大体の場合、それでも結局のところまた「明日はどこかに行くんですか?」とおもわず聞いてしまっていた(たぶん気遣いもありつつ)。そんな彼特有の「サポート」が込められた呼びかけ、「あの感じ」、「最近はなにしてるんですか?ちょうど自分はASPの十周年なので展示したいと思ってるんですけど。どうせならアートツアーとサーフツアーもやるので参加したければご連絡ください」という様なものに、懐かしく反応した50名がきっと作品を出品したのだろうし、きっと他の50名のなかにも何かしらのレスポンスは生まれたんじゃないか、ということも容易に想像できる。

数年前からASPと愛知のhaziとの連携ではじめたre:awardという公募によって選ばれ現在レジデンス中のアーティストや、別経路で紹介され滞在中のアーティストも交えながら展示の設営作業を進め、懐かしい面々が出入りしたりする時間の中で、「声を挙げ、絶やさない」というプロジェクトを通じて考察してきた内容が、この展示と非常に親和性が高いことに改めて気づきだした。もちろん記念展とパーティーの話を聞いたときにも「そういう感じである程度人が集まるなら出来そうだねー」という程度の確信はあったが、特に言語化せず、追い込まず、なんとなく相性の良さを感じている状態のままだったので、気づきをなんとなく追いかけながら、少しずつ言葉にしながら、反芻しながら、作業を続けていた。 作品を壁に取り付けたり、いくつもの作品に直接触れるわけだが、作者も知らないし、作品も初見のものばかり。そう、私がこの場で出会ったアーティスト達は100名以上のアーティスト達のほんの一部であったこと、「そうか、ここにはもっとたくさんの人達の時間が重なっているんだな」と実感しはじめていた。
それぞれの場所を得て行く作品の数々も、設営の手伝いに集まってきた面々や彼らとASPの間にある関係性も、紛れもなく、10年間の活動から生まれた「反響」なのだ、ということが私の中で感じられ静かに感動し、その響きを聴いてみたい、ケンタにも聞かせたいと思い始めていた。 10年前、横内賢太郎が挙げたひとつの「声」、がその周囲の人達を動かし、ゆるやかだが強固でもある結びつきを生み出し、ジョグジャにあまたある「コレクティブ」の世界感ともまた違う(そういったものになじめない現地のアーティストの受け皿にもなりたいと彼が言っていたのをわたしは覚えている)決して先鋭的ではないが、地味に特殊なコミュニティーを生み出し、そこに出入りする日本人を中心としたレジデンスアーティスト/訪問者が時々に出入りすることで、常に変化し続けながら、変わらずサポートする姿勢をもって、「あの感じ」を「絶やさず」に(たぶん力をいれすぎることなく、苦労はあったと思うが、自然体で)続けてきたことで、ひとつの「声(々)」に育ち、その一部が展示の形をとりはじめていたのを感じたのだ。

わたしの想像は膨らみ、「あー、きっとパーティーに集まる人達もASPの「反響」そのものじゃないか。彼らがASPの響きをそれぞれの場所から運び、寄せ集めた時に生まれる響きを皆でつくり、それをケンタが聴き、皆も聴く、これ以上に相応しいお祝い・パフォーマンスはないのではないか」と、考えはじめ、今回のモチベーションが明確になった。
いったん具体的な状況を想像をしつつ、自分なりに言葉を使って当日のイメージをスケッチしてみたが、普段から、あれこれ考えたあげく、その場になってからあらゆる可能性に自らを開くために、何をするのかを決めないことがわたしのやり方なので、厳密なスクリプトを用意することはほぼない。大きなプロダクションで多くの人数が関わる場合は別だが、特に今回のように自分ひとりで取り仕切る場合はその度合いが強い。そのほうがわたし自身が「実際はどうなるだろう」と好奇心を最大限に高めることができて楽しいからだ。決まったこと、決めたことをやることもあるが、その場合は「間違えたくない」気持ちが邪魔してその場で生まれる何かをとらえて形にするセンサーや動作が鈍ることがある。ともかく想像の限りを尽くす、ことが、その向こう側あるいは別の可能性を呼び込む最大の準備になる、という意味でわたしは「もう準備万端」であった。

人が集まり始め、ケンタがインドネシア語と日本語でお礼の挨拶をし、ASPのこれまでの歩みを簡単に振り返った。コロナの時にケンタはオランダへ文化庁の研修に行っており、それ以来ジョグジャは拠点のひとつという立ち位置になっているため、ケンタがいないときにASPを守ってくれた人たちへの謝辞を特に丁寧に述べ、そして?数年前に亡くなった看板猫の「かゆみ」の話?がトリガーになって?感極まって号泣。もらい泣き多数。わたしにとっても「かゆみ」は忘れがたい大事な存在であったため、込み上げるものはありにあったが、次にパフォーマンスを取り仕切らないといけない、と思いなんとかギリギリのところでセーブ。

いつもワークショップなどの機会では集まった人たち同士、あるいはプロジェクトのコンセプトなどと「チューニング」する時間や呼吸やリスニング、想像力のためのエクササイズを準備動作を十分に行った上で「声」を発するのだが、この時はパーティーに集まった人達の顔を見渡し、雰囲気を感じ、耳を澄ますと、皆がある種のチューニングを終えた状態でここに集まっていることが感じ取れた。つまり「ASP10周年おめでとう、ありがとう、ご苦労様、すごいね、嬉しいね、そしてこれからもよろしく」というような空気感を既に共有している。シチュエーションを考えれば当たり前なのだが、そのこと自体がなによりもASPの活動の蓄積してきた時間を物語ってもいた。実際には知り合いもいるし、知らない人もいる、ASPに繋がりのある人に連れてこられた人、ジョグジャに今日つきました、という人も居て「ASPって何?」という人も数名居たとは思う。それでも大多数の人がおなじ思い、感慨、記憶を共有していたことで、ケンタの言葉や振る舞いによって、猫のエピソードによっても、揺さぶられ、瞬く間に集まった人たちは単なる「(偶然の)寄せ集め」ではなく、深く共振し、自然とチューニングされた、個々人が意図的に想いを持って「寄り集った」状態であることが十分に感じ取れた。そう、10年の時間をかけて、こうして集まった時点で、もうチューニングは完了していた、という状況が生まれていたのだ。大多数が共振している状況においては少数の「?」を抱えた人達も多少心をひらいて耳を澄ませばあっという間に共振に加わることが出来る。あの夜に聴いた音はそういう類のものからしか生まれないものだったと思っている。

少し象徴的すぎてどうかな、とも思ったが、まず、ケンタに最初の一声(ちなみにこの時、ケンタは「みーーー」という音で声を発した。かゆみの「み」だったのだろうか?)をもらい、(僭越ながら、というか、わかりやすく最初に何をするか、の一例を示すという意味合いだけだが)わたしがその声を引継ぎ(基本的には同じ音程、同じ音を真似る行為)、輪になった参列者たちにワン・バイ・ワンで伝播させていくという、シンプルなインストラクションにした。いったん引き継いだ声は次の人に受け渡し、その後も各自が息継ぎしながらその声を絶やさないようにキープしていく、ようにお願いしたためその場には音がレイヤーされていく、という流れだ。
もしも淡々とインストラクション通りに声が重なっていけば一つの音程、音の響きが増幅していく、ということになるのだが、99%そうはならない。きっと訓練を受けた音楽家達のみで構成したグループなら100%そういう状態になるだろうとは思うが、わたしが本当に面白いと思っているのは、予定調和からは程遠い結果だ。
例えば、ほぼ毎回わりとすぐに、あるいは少ししたら、誰かが隣の人から伝わってきたのとは異なる音程を重ねる現象がおきる。あるいは、ちがう文字(例えば「あー」が「ae----」という音になる、など)で次の人に声を伝える。そんなことから生まれる微妙に違う音や響きから生まれる倍音の拡がりが引き金になって、いろんな音が誘導されてきたり、記憶からかもとの音に戻ったりと、声々は動きはじめ、変化しはじめる。何かしらが「うまくいっている時」はこの動きが実に生き物のように聴こえてきて、声々が生きている、とリアルに感じられる。
「(隣の人から)声を引き継ぎ、声を(次の人に)伝える」というインストラクションを皆に伝え、最初の人(この日の場合はケンタ)が決めた声からはじめる、ことしか決まっていないため、必ずしも「音程をそろえる」ということが「絶対的な」指示でもなければ目的でもなければ、意図でもない。それよりも言葉の詩的な可能性というか、意味とか具体的な行動はそれぞれの解釈によって生まれるという「現実世界」というか、よくよく観察すれば生活のそこここに働いているメカニズムを音の動きに反映させたいという思いが強い。「音程をそろえる」ことは、あくまでも音を出すという動作のための入口というか、「あーそういうことね、じゃあやってみよう」と思うための口実というか、簡単なコンセンサスを知ってそうな・出来そうなことで作っておくというか、「コンセプト的にはどういうやり方でもいいんですよ」とバカ正直にその部分を強調して迷いを広げすぎてしまうのは避けたいという事、などとのバランスであり、ガイドラインでしかない。おそらくわたしが残したこういう余白に気づいて「了解」する人もいれば、やっぱりちょっと気になりすぎて「音程をそろえれば良いんですよね?」とこちらの意図を明確にして実行しようとしてくださる方などいろいろな反応がある。私は「引き継ごうという意思」を持って「声を挙げ、絶やさない」という気持ちでやってくれれば良いと思っているし、そういう風に伝える。その結果、音が変化しなくてもそれはそれできっと静謐な良い響きになる。音が想像を超えて変化したならば、「音」は躍動し生きてくる、と信じている。どういう場合でも、その時に集まった人たちのその時の声でしか生まれない一度きりの響きになること自体が貴重な事だし、そういう響きに自分の耳や身をさらし、参加してくれた人たちにも深く経験してもらいたいと思っている。
これは価値観の話しになってくるが、隣の人から声を引き継いだ時に音程にしろ何かしらが変化した場合に「調子がはずれた」とか、「間違った」と感じることは、実際には、ある。それが音楽的なバックグラウンドから来るのか、その人の培ってきた価値体系から発生するのかはわからないが、わたしはむしろこういう「違い」が共存してしまう時と場を待っている節がある。こういった変化・動きは、その人の個性やその時の瞬時の判断、身体的な状態などが連動しておこるものなので、ある種の必然であって、決してランダムではないと思っている。わたしが大事にしているのは「必然感」であって、文字通りなんでも良いわけではない、シンプルな同意(この場合だと「声を引き継ぐ」)は尊重される必要がある、そここから生まれてくるバラエティー、各人の想像を超えた選択や行動はむしろ歓迎されるべき「他者性」が集合した結果につながると信じているからだ。しかも「声を挙げ、絶やさない」時にそういう複雑なプロセスや世界が非常に凝縮された短い時間の経験として体験され得るのだ。

ASPの十周年記念パーティーのあいさつはASPの軒先でおこなわれた。小さな路地だが時々バイクが通ったり、すぐ近くをはしる大きな通りは交通量も少なくないため車やバイクの音が聞こえてくる。そもそも屋外であるため声の反響が十分に得られるかわからず、お互いの声があまり聞こえない可能性もあったが、あいさつが終わり、わざわざ家の中に移動して暑さに耐えながらぎゅうぎゅうにひしめきあってやることでもないだろうと思い、そのままの流れを引き継ぎ、ともかくやってみようという思いで、わたしは説明を始めた。号泣するケンタには頼めそうもなかったので加藤真美さん(インドネシアに何十年も暮らしてきた画家の方)が通訳をやってくださった。だいたいの説明が終わったかな、というタイミングで方々のモスクからアザーン*2 が聴こえてきた。これぞジョグジャの声々だ。心のどこかで「待ってました」とわたしは微笑んだように思う。
初めて訪れた時から私はこれらの声々の重なりが大好きだった。たくさんのモスクや集会所から聴こえてくるのでバラバラだけれどひとつの声でもある、決まった時間に一斉にはじまるわけではなく、だいたいの時間帯でそれぞれの判断ではじまる。男声のみだが、年齢には子供から老人までばらつきがある、それぞれの声は勝手気まま、一生懸命だったり、没入感があったり、のんびり適当だったり、緊張したり、時々超絶技巧的にも思える・聴こえるすごい節がきいている人もいて、歌でもなければ、音楽でもない、祈りの呼びかけ、イスラムの教えに基づくこれらの声々の重なりがあたりに響き渡るのだ。宗教的な想いや戒律が「きっかけ」で生まれていることは理解しているが、生活の中に活きた音響として美しい音だと思い続けてきた。もしデザインされた音を「演奏」するとしたらこれ以上なくやりづらい音環境であるが、わたしにとってはこの上なく最高のタイミングだった。「必然感」のスイッチは入った、今日はきっと素晴らしい声々が生まれる、と感じた瞬間だった。そして、その流れのままに、厳密なコントロールやわたしの意図や企図を楽々と越えた音響・現象があの夜も生まれたと思っている。その時、その場に集まった人たちの「寄り集まり/コレクティビティー/わたしたち」が発露したからだ。ASPという「ひとつの声」が生んだ10年分の反響(のほんの一部)は、次々に重なる声と、アザーンと、通りから聴こえてくる雑踏の音も、全てが絶え間なく変化するパラメーターとして取り込み、複雑に絡み合い、作用しあってて生まれるムーヴメント、声々の響きとして小さな路地にこだました。とてもいい時間だった。その余韻と、また次の10年で重なり合っていくだろう声々の予感とが混じった響きがわたしの耳にはまだ響いている。

その時の様子→こちらの【YouTube動画】

*1 ジャワ語のあいさつで「前を失礼します」のような意味合いがあり、お辞儀しながら年長者などに敬意を払う。「モンゴ、モンゴ」と二回繰り返したり「モンゴー」と一度で語尾を伸ばしながら腰を屈め、手を振るようなしぐさをすることもある。個人的には日本語の「どうもー」とかぶる、と思っている。

*2 モスクから周囲に響き渡る祈りのよびかけ、夜明け前(Subuh/スブー)、正午頃(Zuhur/ズフール)、午後3時頃(Asar/アサール)、日没後(Maghrib/マグリブ)、 夜(Isya/イシャ)と一日数回行われる。

*3 ジョグジャで屋台やお店などで、分厚いビニール製の生地に印刷や手書きが施され時間帯で現れるアングリカンとかワルンと呼ばれるような屋台やお店ではテンポラリーな壁にもなり、看板にもなるもので、よく使われている。



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